August 09, 2010

中小企業診断士の資格を受験しようと思ったきっかけ

今年の中小企業診断士一次試験は、7日と8日に行われたとか。
受験生の皆さん、力は発揮できたでしょうか?

ワタシが受験した頃は、冷房なし!一次試験もマークシートではなく筆記!3部門からの選択!という、今の受験制度とはまた異なる状況ではあったけれども。
でも、おそらく、受験のあの緊張感は今も昔も変わらずだと思う。今年受験された方々は、今頃、ほっとしたり脱力したり・・・という感じなのかなあ。まずは少し休息を!

久々の「むかしばなし」カテゴリ。
へんてこできそこないOLだったワタシが、なぜマネジメントの資格を目指したのか・・・この受験シーズンだからこそふりかえってみようと思う。

とはいえ、資格の雑誌によくあるような動機・きっかけはワタシにはない。
たまたま、会社で配布される自己啓発オススメパンフに目を通したこと、その中に中小企業診断士があったこと、それだけがきっかけだ。
そのパンフには、TOEICやら税理士やらその他あらゆる資格(国家資格に限らず)がのっていた。暇ではないが、お料理やお花などのオケイコの延長線上というノリで、同僚とあれやこれや言いながら、そのパンフをパラパラめくっていた。会議室でお昼を食べながら。

その当時、ワタシの立場は「出向」となっていた。それまで行っていたシゴトとなんら変わりはないのだけれど、所属していた情報システム部門が分社化し、別会社(グループ会社)となったから・・・。
このまま情報システム部門のプロを目指すか、あるいはいずれあるだろう異動で本社(親会社?)に戻り、営業かもしれないしスタッフかもしれないし・・・ともかく違うシゴトにつくのか。いつかは決断するときが来るだろうと少し思いだしてきた時期だった。素人あがりで情報システム部門のプロもちょっと難しいよな・・という思いもあり、いまさら営業もきつそう・・・とか、多少は葛藤していた時期。同僚や先輩の中には、昔からの夢の職業(小学校の先生だったり、通訳だったり、女優だったり)に転身した人もいて、自分自身に少し迷いがあった。

で、とりあえず「資格でも取っておいた方がよかったりして?」という軽いノリで。

おもしろそうだったら、別に料理でも、英語でも、なんでもよかったのだが、「国家資格の方がつぶしがきくか?」という浅はかな考えのもとに、探してみると。。。
「税理士」「社会保険労務士」「公認会計士」「中小企業診断士」などがあった。

「公認会計士」は、会社を辞めて勉強に専念する人が多く、それでもかなり難しいと。。。で、断念。
「税理士」は一つ一つの科目をコツコツと合格していけばよいという点で、社会人向けだと思ったが、「コツコツ」でちょっと性格に合わないかもと思い、結構合格までに年数がかかるということで断念。
「社会保険労務士」「中小企業診断士」で非常に迷う。

で、家族やら、友人知人やらに尋ねてみると、「女性ならば社会保険士だろう」「独占業務がある社会保険労務士の方が将来性があるのでは?」という意見が圧倒的!

というわけで。

「中小企業診断士」の講座を受けることに!

ひねくれ者のワタシは、みんなに「社労士の方が・・・」と言われて、それを受験するのはあまりにもつまらないかな~と思っていた。
それに、パンフにあった中小企業診断士の科目の内容がとってもおもしろそうだったこと。ネックといわれている学習範囲の広さが、むしろ飽きっぽいワタシには魅力的だったこと。女性の有資格者の極端な少なさが、むしろ強みになるのでは?と考えたこと。

さらに、ワタシのひねくれものっぷりは、当時の中小企業診断士にあった「部門の選択」においても炸裂する。
今の中小企業診断士には「部門」の概念はなく、すべての受験生が同じ科目を受験するが、当時は3つの部門を受験申し込み時に選択するしくみになっていた。「鉱工業部門」「商業部門」そして「情報部門」。
そのときのワタシのシゴトの内容から考えれば、「情報部門」を選択することがノーマルな考え方。「今のシゴト」に直結するという意味で。
しかし、ワタシが選んだのは「商業部門」。マーケティング、販売管理、仕入れ管理、物流、店舗施設、商業施設・・・などとのかかわりは、シゴト上はなーんにもないクセに!だ。選択の理由は「おもしろそうだったから」。「情報のシゴトもそんなに得意じゃないしな~」「今のシゴトでえらくなろうと思っているわけではないし~」「受かるか受からないかも分からないんだったら勉強がおもしろそうな部門の方がいいな~」「商店街とか百貨店とか行くの好きだし」。ハイ。それだけの理由で。

で、まずは手始めに、会社のパンフに載っていたT社の「速習コース」なるものに通学することにしてみた。

ちなみに、受講のきっかけが上記のような感じなので、資格試験自体の「難易度」は追って知ることになる・・・一次20%×二次20%=4%とか・・・本気で理解したときには驚きのあまり、ぶっとんだな~。普通は、受験を考える段階で、理解するのだろうけど(笑)。

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February 26, 2010

若手社員のオシゴトあれこれ

若手社員(新入社員~2年目社員くらい)のシゴトは、多岐にわたる・・・。

ワタシが新入社員の頃は、朝の机拭きも交代で行っていた。(お茶入れはなし)
あと、課のミーティングの議事録を持ち回りで作成することも。情報システム部門は専門用語が多いので、最初の頃は、ミーティングを真剣に聞いていても、「なんのこっちゃ」という感じでまったくわからないのだ(もう、言葉そのものが)。
そんな状況で作成したぐちゃぐちゃの議事録を、当時の課長(課長代理の場合も)は本当によく添削してくれた。しかも、少なくともワタシが所属していた課の議事録フォーマットは、A4・1枚でまとめきれないといけないように構成されていた。今思えば、「コンパクトに要点をまとめる」という非常によいトレーニングになっていたわけだ。

そして、新入社員は電話を3コール以内で取らなければならない。内線の鳴り方と外線の鳴り方が違うので、内線の場合は「部署名」を、外線の場合は「社名」を言う。瞬時に音を聞き分けて言う言葉を変えるのだ。これも、最初は難儀していたが、1年も経つと、電話が鳴る前にかすかに聞こえる「プチっ」という電子音の段階で電話を取ることができるようになった。電話を取るということに関しては、早いこと=良いこと だから・・・。

新入社員に限らずなのだが、情報システム部特有のシゴトの一つに、「オフィスの引っ越し」「レイアウト変更」に伴うコンピュータ配線があった。荷物の移動等はもちろん引っ越し業者さんが行ってくれるが、最終的なコンピュータの配線(もしくは、配線後の確認作業)は、なぜか情報システム部が行うことになっていた。地方は丸ごと他の業者さんに依頼するのだが、首都圏に関しては、情報システム部がなんだかよくわからないけれど引っ越し直後に出向き、業務に支障なくコンピュータが使えるかどうか確認に行っていた。
ここで問題だったのは、同じ会社の従業員であるのに、引っ越しをした部署の人たちは、ワタシたちを見て「業者の人」と思うこと。まあ、カジュアルウェアで床にはいつくばって机と机の間をのぞいたり、電源やケーブルを抜いたりさしたりしているのを見てそう言うわけだけど。最初は「業者さん」に間違えられることは少しショックだったな~。

そもそも、配線とかは苦手な分野。
小学校か・・・中学校か・・・理科の時間に、豆電球をつなげて点灯するかどうかという実験を行ったことがあったが、ワタシは最後までつなげなかった(並列つなぎができなかった~)。一人、最後まで豆電球が点かないという。。。しかし、そんな人がオフィスの配線確認&コンピュータ立ち上げ確認をするなんて。。。今思えば恐ろしい。

本業以外のシゴト(?)もある。宴会が得意な人は各種飲み会の幹事とか。
入社2年目だったかな・・・なぜかワタシが担当を割り振られたのが、その年に全社的に取り入れた「ファイリングプロジェクト」の部内サブリーダー。
まだ「個人情報保護法」もない時代で、今ほどセキュリティ意識も高くなかった(まあ、ネットワークが今ほど構築されていないので、その分リスクも少なかったから・・・)時代。おそらく、今後ペーパーレスにしていきたい、また、企業としてセキュリティも問われていくだろうという観点および、あまりの社内の紙の多さとオフィスの乱雑さを何とかせよ!という命令により、立ち上がったプロジェクトなのだろうと思う。
なぜ、ワタシがサブリーダーなのかはいまだ不明。ちなみに、リーダーは、ワタシと同期で同じ年のシステム子会社のプロパー男子社員(机の島も同じだった)が任命された。彼の任命理由は、「部内で一番机および周辺が汚い人だから」だった。
サブリーダーの役割は、まずリーダーのお尻をたたき、リーダー自らを模範たる(・・・というか、せめて人並みの)デスクトップにさせること。あとはリーダーと一緒に全国会議に出たり、書類につける番号のルールを決めたり、いらない紙を捨てまくったり!破棄する書類等を積み上げて、その縦横サイズと重量を量り、写真を撮って、プロジェクト本部(総務部だったかな?)に報告するという決まりがあった。重量は報告しても分かりにくいので、数値データとともに、「小錦○人分削減!」と報告したような記憶がある。

それもこれも、本業ではないが、若手社員のオシゴト。
今思えば、何かしら良い経験になっている・・・はず。
・・・かなあ???

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February 14, 2010

新入社員は失敗する生き物である

「情報システム部」の中には3つの課があった。
基幹システムの開発を行う課(仮に”1課”と呼ぶことにする)、関連部署との連携を統轄し情報系システムの開発等を行う課(同じく”2課”としておく)、そして、情報システムの日々の運用を行う課(同じく”3課”)。
ワタシが配属されたのは、「関連部署との連携を統轄し情報系システムの開発等を行う課」だった。

基幹システムは、その名の通りその企業の基幹的な業務を支えるシステム・・・たとえば、請求とか基本的な顧客管理とか契約管理とか。「トラぶったら、止まったら大変!」なシステムのことである。金融会社なのに、請求が間違ったり遅れたりしたらそりゃ大変だし。
その当時はバブル後期で、急速に会社が成長し、顧客・契約、そして商品も急増していた時代だった。1課は、ふくれあがるデータやアクセスが増えるシステムの維持と、新しい商品に対応する新しい基幹系システムの開発に追われていた。

3課は、基幹システムの運用が主な仕事。システムは運用時間が決まっており、夜中や休日にバックアップやメンテナンスを行う。また、請求や経理など、締め日が決まっている業務に関しては、それに合わせてシステムも更新するようになっている。
その日々の運用処理がつつがなく進められるように、各種のシゴトを行っていたのが第3課だった。

そしてワタシが配属された2課。基幹系以外のシステム・・・要は、絶対にとめちゃいけない!まではいかないシステムの面倒をみるという役割なのだが。
正直、この課が一番何をやっているのかわからないような課だった。
当時は、エンドユーザコンピューティングの出始めで、現場で必要なデータを出し、加工し、スピーディな業務遂行をしてもらう・・・という考え方が出回ってきた頃。
基幹系のシステムに蓄積されたデータを、現場(各営業支店など)で加工・出力して機動的な営業活動等に役立てる・・・そんな小回りのきくシステムを作り、提供するというシゴトが、その頃、2課に任されたミッションであった。つまり、何か新しい試みはこの課が請けおうということ。

入社直後は、外部研修、会議の議事録を取ること(専門用語が分からずまともな議事録も取れなかったが)、先輩の手伝い程度(しかできないし・・・)。なにしろ、少人数でまわしている部署なので、先輩は忙しい。I社のマニュアルをどさっと置かれて、「とりあえずこれ読んでおいて」という日もあった。
外部研修でよく行ったのは、新宿住友ビルにあった(今もあるの?)CSKの研修センター。プログラミングのようなことはしなくていいらしく、今でいうアプリケーションソフトの研修に行かせてもらった。これは結果としてはよかったかも。他の部署に配属されていたら、その時期に、ワープロや表計算、データベースの研修なんて行かせてもらえなかったもの。。。
まあ、ワード、エクセル、アクセス・・・ではなく、一太郎(とDos文書プログラム)、マルチプラン(とロータス123)、dbⅢってものだったけど。

そして、秋葉原に当時あった、IBMの研修センターにもよく行った。

シゴト内容はあらためて・・・として。

今回のタイトル「失敗」。
これはよくやった。笑っちゃうくらい失敗した。一新入社員個人としての失敗も多かったし、試行錯誤の時代だった情報システム部の、初めてのことゆえ、チャレンジゆえの失敗も多かった。今ほど便利ではない時代。今だったら簡単にリカバリーできることなのに、その時代は多くの手間をかけてやらざるをえないこともあった。
でも、それで学ぶことも多かったわけだ。

失敗は数あれど、思い出に残る(?)失敗を今回は3つほど。

まず一つは部署としての失敗・・・というか、大変だったこと。
2課で担当していた情報系のシステムに関しては、何かプログラムの修正があった場合等は逐一社内メールで送っていた。「メール」といっても、「電子メール」ではない。「社内郵便」である。
当時関連していた部署は約50。50枚のフロッピーに該当するプログラムのファイルをコピーして、そのフロッピーを社内便用の封筒に入れて発信元と送付先部署を書いて。送付状を入れて、インストールマニュアルを作成し、50部コピーして各封筒に入れて、社内便にのせる。
これだけでも大変な作業。3人くらいでこの作業を行っていたかなあ。

今だったら、電子メールで配信するとか、サーバをいじって更新すれば済むことだと思うのだけど。当時はそんな作業を行っていた。

それでも、うまく変更できればよいのだが。
メールを送った次の日くらいから電話がジャンジャン鳴ってくる。「うまくインストールできません!」「やり方がわかりません!」という問い合わせの・・・。
説明できる程度だったらよいのだが、問題は、送ったプログラム自体にミスが見つかったとき。謝罪の電話やファックスを各部署(50箇所・・・)にし、作業は初めに戻る・・・ということ。あらためて、50枚のフロッピーのコピーからスタート・・・。このあたりはもう、新入社員の力仕事になる。大変だったけど。。。まあ、いい思い出かな?

そして、ワタシ個人の失敗で思い出深いこと。

まず一つ目は、社内ネットワークをバチン!と切ってしまったこと。これは始末書レベルの大失敗だった;;
「これ消していいのかな?」とついついバチン!
・・・これは笑えない失敗だったな・・・

そしてもう一つ。
当時、ワタシの所属課の課長によく電話をかけてくる他部署の課長がいた。
その人は、仕事上、情報システム部と非常に関わりの深い営業事務関連の課の課長であり、2課の課長と同期(?)かなにかでプライベートでも仲がよさそうだった。結構電話でもなれなれしい感じ(失礼!)で、部署名を名乗ることなく、しかも関西弁で、「○○(←自分の名字)やけど、△△(←2課の課長の名前)おる?」と電話をかけてくることが常であった。

ある日もまた同じような電話が。
「△△課長、○○課長からお電話です」といつもと同じようにつなぎ、課長は「おう!」という、これまたいつもと同じトーンで電話に出た。
しかし、その後なぜか妙に恐縮している様子・・・。

なんと。

その電話は、当時の社長からの電話だったのだ。
当時の社長(現CEO)の名字と、いつも電話をくれる課長の名字は同じ。そして同じ関西弁。。。まぎらわしい!
2課の課長はご立腹だったが、これは、ちゃんと部署名を名乗らない方が悪いでしょ~。

というわけで。
新入社員は失敗する生き物である。
20年もたてば笑い話にもなる。

・・・きっとまた・・・続く・・・

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February 08, 2010

運命の(?)配属発表

前回の続き。

長い長い新入社員研修も終わりに近づき、いよいよ配属発表となる前に、一応「面談」があり、一応「希望部門」のヒアリングが行われた。ただし、原則「希望はかなわないという前提で」(人事部いわく)。
そりゃそうだ。数百人からの希望をいちいち聞いて調整なんてできるわけがない。基本、全国型総合職の人(男子がほとんど)は転勤もあり。地方もあり。地域限定型総合職の人(女子のみ)は、自宅もしくは寮から通勤可能なところに配属されることになっているが、営業かスタッフか、支店か本社か・・・なんて詳細は会社側が決めること・・・だった。

ちなみに面談でのワタシの希望。
「どこでもいいといえばいいけれど、できれば、専門的な知識を身につけ、長く勤められるような部門がよいです。」
とついつい口に出していたようだ。研修での不動産鑑定士の女性先輩のインパクトが強かったから。。。
一人2~3分くらいの軽い面談だったと記憶しているが、終了後も別途人事の方をつかまえて、「国際的な部門に配属してください!」と迫っていた子もいた。やる気はすごーくあって、優秀な子だったが、わりとすぐに辞めた。人生そんなものかも。

で、運命の配属発表。
大きなホールのようなところで、一人ひとり名前を呼ばれ、配属先が言われる。
全国型総合職の男子が「秋田支店!」とかいわれるたびに、どよめきが。。。

そして、ワタシの配属先となったのは、

「情報システム部」

ちょっと待て。
それはどこにあるのだ?会社案内にそんな部署あったか?プログラム作ったりするのか???しかも、文系なのに????

と、頭はハテナマークだらけになった。

部署名がピンとこなかったのは、どうも、部署名がワタシの見た会社案内よりも後に変わったこともあったようだ。それまでは「○○改善室」「○○合理化室」のような名称だったらしい。情報システム部よりもシブ目でいい名称だと今なら思うけれど。

それまでは、新卒の大学卒はめったに配属されないような部署だったとか。一応先輩はいたけれど、事務の一般職の方が多かった。あとは、関連子会社のシステム会社と一緒にシゴトをし、職場も一緒なので、そちらにもともと入社した人とか。

そして、配属が決まった6人が連れて行かれたオフィスは、今まで面接や入社前研修で使われていたながめのよい高層ビルのかっこいオフィスの隣の別棟4階。しかも、電車の線路のそばという立地上、半地下みたいに見えるところ。
同じく配属されたやる気のある同期の中には、この部署への配属に憤り、泣いていた子もいた。まあ、今考えれば、バブルのその時期であれば、金融業の小さな情報システム部門で働くくらいなら、大手のコンピュータ会社(IとかNとかFとか)に入社すればよかったという話しである。現にIとかNとかFとかの内定をもらっていた子もいたし。もっとも、今考えれば、IとかNとかFとかに入社していて、今、幸せかどうかは謎だ。。。
そうそう。「はじめからこんな・・・左遷だ」と嘆く子もいた。

ワタシはといえば・・・。

そんな痛手は感じていなかった。
そもそも、新入社員研修時もまじめとは言い難かったし、まあ、何にせよ適当なんだと思う。その頃から。
「なんだかよく分からない部署だし、なんでここに配属されたかどうかも分からないけど、とりあえずやってみるか。専門的部署っぽいから、何か資格でもとったりすればいつか役立つかもしれないし」という感じ。

それまでの研修や、会社案内では見えなかった企業の現実をはじめて知ったのが、配属先に最初に足を踏み入れた時だったと思う。
まあ、きれいでいいところしか見せないわけだ。入社するまでは。
配属先のオフィスや会議室は、段ボールがいっぱい積み上げてあり、連続帳票とかとにかく紙がたくさん。今でもよく覚えているが、島は3つあり、その真ん中がワタシの配属先の課だった。ぐるっと見渡すと、言われていたよりも人の数が多い(他の部署よりはずっと少ないけど)。
そう、プロパー社員だけではなく、関連子会社の社員、協力会社の社員および契約社員など、所属も、また見た感じも(笑)、雑多ないかにもユニークそうな人がたくさんシゴトをしていたのであった。。。
さあ。会社員生活デビュー!
ここからさまざまなおもしろい(今思えば)人や出来事に遭遇していくとは、その時点では想像する余裕すらなかった。

・・・気が向いたらまた続く・・・

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February 04, 2010

長い長い新入社員研修

ワタシたちが就職活動(ちなみにその頃は「しゅうかつ」という言葉はない)をした時代は、今とは比べ物にならないくらい楽で、内定をバンバン取れた時代・・・といわれている。
でも、それは総体的に見れば・・・という話しで、内定を5つも6つも取る人もいれば、なかなか内定そのものを取ることができず、苦労する人もいた。たとえば、女性。たとえば自宅外通勤の人。。。それは今とあまり変わらないような気がする。
でも、採用数は圧倒的に多かったことは事実。やっぱり、「少し先の日本への期待感」が高かったのだろうと思う。

ワタシの時代のリクルートスーツは「紺」。というか、いつから黒になったのだろう?
髪型とかはあまりうるさく言われなかったような気がする。・・・というか、学校でそんなに指導とかはないわけで。「就職ジャーナル」などを見ながら友達と相談・・という感じだったかな?

「記念受験」というのもあった。落ちるのを承知で憧れの企業を受けること。
たとえば・・・大手商社とか。大手広告代理店とか。テレビ局とか。新聞社とか。

まあ、そんなこんなでいろいろ受けたものの、入社を決めたのは、受験した中で唯一の金融サービス業界のA社。成績もアレだし、決して面接がうまくいったとも思えなかったが、大量採用に助けられ内定をいただいた。
ちなみに、第一希望業界はマスコミ。出版社、レコード版社、広告会社など。もうこれだけ見ても「しょうもない何も考えていない大学生」ぶりが見えてくるという感じだ。

金融ということは、入社してからもいろいろな試験もあるし、内容も難しいし。
入社前に日商簿記3級取得が必須だったし(通信教育のテキストが送られてきた)。
ほかに若干内定もいただいていたが、決め手は「社風」だった。女性を活用していることを大アピールしているということもあったが、全体的に自由闊達な感じで、面接等において差別的な発言もなかったし(結婚したら辞める前提で・・・とはっきり言う会社もあった)。
一言でまとめると「(動物的)直観」で入社を決めたということだ。

4月1日をむかえ、その後は新入社員研修に入る。
神奈川県の住宅街の研修センター(すんごい立派だった)に、総合職(数百人)が全員集められ、約1カ月の集合研修。3人の相部屋。ワタシは、関東からきた子1人と、大阪からきた子(研修後は大阪勤務となる)1人の3人部屋だった。救いは、同じ部屋の子たちと気があったこと。
大きな声ではいえないが、「明日までに」と出された課題を「まあ、いいよね」と同調してやらなかったり。どちらかというと、あまりまじめではない人が集まった部屋というわけだ。他の部屋には、もちろん、まじめに課題をやっていた人もいた~。
同室だった3人の中で、大阪からきた子(Mちゃん)は、その後も長く付き合うことになる。たまたま、ワタシが彼女の配属先の取引先のシステムを担当することになり、大阪と東京をお互いにシゴトで行き来することになる。これは本当に心強かった。大阪の部門の情報も彼女から収集することができたし。
彼女の結婚式にまで出させていただいた仲である。

というわけで、まじめに取り組んでいなかった集合研修だった(特に眠かったのは、経理の話しと金利の話し・・・業界的に核となる話題なのだけどね・・)が、思い出に残っているテーマ(新入社員研修のカリキュラム)が2つあった。
一つは、不動産鑑定部門の紹介というカリキュラム。
女性社員で、不動産鑑定士の資格を保有している人がいらして、資格の話しやシゴトの話しをしてくれた。すごく印象に残っている。このテーマがあまりにも印象に残っていて、配属希望ヒアリングのときに、ついつい「スタッフ部門で専門的なシゴト・・・」なんて口走ってしまったことがその後の会社員人生を決定づけたような気もする。
それに「資格」。
人生で、はじめて、「国家資格を持つことで、会社での生き方を明確にしたロールモデル」を見せていただいたわけだ。

そして、もう一つ印象に残っているカリキュラムが、「営業同行研修」。本業の営業部門に1日、不動産営業部門に1日預けられ、先輩営業担当者と一緒について回るのだ。この不動産営業部門での営業同行はかなりインパクトがあった。
担保物件の土地を、人に見つからないように写真を撮ったり。不動産契約の現場にも立ち会わせていただいたが、取引先相手が、まさに「ナニワ金融道」に出てくるようなキャラそのもの!
ダブルのスーツ(もちろんストライプ)にダイヤ入りゴールドロレックス、首元にはゴールドネックレス・・・という(笑)。そして、机の上にドーンと置かれたジュラルミンケースの中には1億円。もちろん警備員さん立ち会いのもと。あれは今思い出してもインパクトのあるシーンだった。。。

新入社員研修で学んだ内容は、はっきりいってあまり覚えていないが、特に営業同行研修で「ああ・・・社会の現実って、働くって大変そうだ。でも、少しカメラをひいてみると、おもしろいことも発見できそうだ」ということは頭に残ったような気がする。

そして、運命の(?)配属発表へ・・・。

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February 01, 2010

そういえば「バブル」という時代があった

有楽町西武が閉店とか。河原町阪急が閉店とか。
景気が上向かないから?消費が活性化しないから?まあ、デパートでの買い物が家族のレジャーだったのは、ワタシたち世代が子どもの頃までなのかなあ。。。
その昔は、デパートに行っておもちゃや洋服を買うこと、デパートの上階のレストランでごはんを食べることは年に数回のお楽しみだったなあ。
デパートが閉店ということになると、(今でこそめったにデパートに買い物に行かないのに)妙にノスタルジックになって、「なんで~?」となるのは、「家族の思い出」がたくさんつまっているからなのかもしれない。

で、先日の勉強会のメンバーに、偶然、ワタシの元勤務先で現在働いている方(男性=Aさん)がいる。Aさんは中途入社なので、ワタシと入れ替わりがギリギリニアミスしているか?くらいなのだが。ワタシが退社してからしばらくたって、資格つながりで偶然縁があり、お会いしたということになる。

元勤務先は、かつて、同業他社がドタドタ倒れた時期であっても、一人勝ちしていたのに、今はすごく調子が悪くて、社内の雰囲気も???(Aさん曰く)。部門にもよるかもしれないけれど。
そして、ワタシが出向していた会社(関連・・というか・・子会社)は、親会社が保有する物件に引っ越すとか。これって、ほかにお客様が入居してくれないから、身内が入るってことを意味しているんだよな・・・。

そういえば、勉強会で「組織」についてディスカッションしているときに、だれかのテーマがきっかけで「組織愛」が話題にのぼった。
「たとえばリクルートにいた人は”リクルートに前いました~!”って、実名で社名を出すよね?」とか。「日立の関連会社にいたけど、”日立では・・・”っていまだに言う」とか。一方、出さない人もいる。「メーカーで」とか「某銀行で」とかくらい。辞めても社名を会話に出すというのは、何か、誇りがあるんだろうね、という話し。
ワタシは、取り扱う商品に愛着はあまりなかったが、会社は嫌いではなかった。何より、そこにいた人たちが愛すべき人たちだったので。上司も同僚も、シゴトで関係した部門の方々も。だから、ここでは出さないが、会話の中では「○○社にいましたよ」ということをしょっちゅう出している気がする。。。

時代は変わっても、せめて愛すべき人たちの集団であってほしいなあ。Aさんの言う通り「社内の雰囲気が・・・」という状況だとしたら少し悲しい。

そういえばバブルという時代があった。

ワタシが社会に出たのは、ふりかえってみれば、あと2~3年でバブルが終わった時期。つまり、バブル後半。タクシー券使い放題・・・みたいな時代。大阪出張も、エコノミーだけど飛行機も使ったし、前泊後泊もOKだった(今は日帰りが基本だとか)。

なぜか、今年年頭から、あの頃のことをふりかえってみたい気分になっている。
新入社員だった頃の新鮮な気持ちに戻りたいのかも。
というわけで、読んでくださっているみなさんにはつまらないかもしれないけれど、不定期であの頃のことをふりかえってみたいと思う。

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