秋晴れの中の学園祭
今年もいつもの学園祭。
ワタシは担当のクラスのパソコン教室が初日の午後にあるので、初日はほとんどそれにつきっきり・・・。
2日目は、出店を少し楽しんで。今年もちびっこ動物園がやってきた!ヤギさん、今年もおつかれさま~
「メェ~。これも仕事っすから。一応、プロなんで」
そして今年も多くの卒業生と会っておしゃべり。これ「が」ワタシの仕事っすから。めぇ~。
電撃結婚していた卒業生、仕事で英語をたくさん使うようになったという卒業生、職場の行き先に不安を抱える卒業生、先輩としてしっかり働いている卒業生、まだまだ学生気分で自分探し中の卒業生、すでに1社目の会社が倒産し2社目の会社で元気に働く卒業生・・・その他大勢。
昨年よりもなんだか多くの卒業生が来校した様子。
「ホームカミング」できる学校(場所)があるということは幸せなこと。
大学祭・・・懐かしいなあと思いながら屋をあさってみたら、昔の大学祭(自分が大学生だった頃の自分の母校の)の公式パンフレット2年分が出てきた~。
ぱらぱらとページをめくって懐かしさにひたったのだが、「'87白金祭」の「基調方針」なるページに書かれていた文章が、今、大人になったワタシが読んでも感心する内容だった。学長挨拶などは別のページにあるので、これは当時の実行委員が書いたもののはず。
学園祭を通じて得ることのできるものは何か。「ただ、「祭り」としての楽しみか、自分の所属する集団内での連帯感か。知らない顔とふれあい、増える人間関係のチャンネルか。それらもとても重要ではある。しかし、今問題にしたいのはもっと基本的な事だ。学園祭に参加することによって意識してほしいこと、考えなければならないことは、失われていくものに対する意識だ。特に我々が無意識のうちにもてあましている時間に対する認識である。我々の学生生活全体から見てみれば、ほんの短い間のことである。しかし、参加して、その中で自分の役割を見つけ、演じることによって、そして、ある一瞬の時を周りの人と共有することによって、単に時間をやり過ごすのではなく、時間を作り、使い、能動的にかかわることができる。そうすれば、時間のながれを点ではなく、線として認識することができるはずだ。現在に積極的にかかわることによって、ただ漫然とやり過ごしてきた点としての時間を一つの線で結ぶことが可能になる。そして、これらのことが、やり過ごしていただけの瞬間を同じ線上に認識させ、次なる局面に対する姿勢を意識的、能動的なものにする。
今年も白金祭がやってくる。戸塚で体育祭が、白金で文化祭が、大勢の人の参加、協力のもとに行われる。わずか数日の祭りであるが、それで終わりにしないでほしい。それぞれの思いが交錯し、昇華し、次のさらなるステップの足がかりとなるように、積極的な参加を願ってやまない。
一部ではあるが、こんな感じ。
24年の時を経て、いまさら「そうか・・・学園祭という大学のお祭りに、こういう意味を見いだせるものなんだな」と深く感じ入った次第である。
「寝かしておかないと」分からないこと・分からない感情もあるんだなあ。
とりあえず、ワタシは大学時代にさまざまな行事に参加してよかったと今にして思っている。
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